Sです

知らぬ間に10年が過ぎていました。

 

Mさんも書いてくれていましたが、久しぶりのランチで最近読んだ本の話をしていました。

この場所のことを思い出し、そういえばあのサイトまだあるのかな、と調べたらありました。

こんなに喋ってるんだから書きましょう、と再開を決めました。

でもよくよく読み返してみると、10年前のその前も随分空いてたんですね。

 

子供の頃からずっと本が好きです。

この10年は仕事に関する本とか、学びのための本を読むことが多かった気がします。

紙の本が好きなので、何を読んでいても満たされるものがあります。

ですが、本当に好きなのは物語です。

少しずつまた好きな種類の本に戻ってきているので、ゆるやかに更新して行きたいなと考えています。

 

フォントの大きさとか、画像の貼り方とか、まるで覚えていないので笑ってしまいました。

あと過去の自分が書いたものが、まるで知らない人の書いたものみたい。記憶にない。

書くことで内側にあるものがリセットされるのかもしれません。

 

ではでは、今後ともよろしくお願いいたします。

M「われら闇より天を見る」クリス・ウィタカー

早川書房

 

 

ゴールド・ダガー賞受賞というだけで期待が高まる単純な私。
そして期待に違わず、冒頭2ページでぐっと引き込まれます。
短い描写でその土地がどんなところか、彼らの関係性はどうなのか、さらっと伝えてくるのがうまいし、少女ダッチェスと警察官ウォークの二組の描写を交互に描くことで飽きさせません。しっとり描写する部分と落とすタイミングが絶妙ですし、後半は一気呵成、ラストもシンプルだけど感動的です。

 

私が面白いなと思ったのはその人物造形です。
登場人物の、軽重はあれど犯罪率の高さといったら!
ダッチェスは放火、ダッチェスの母スターは育児放棄、ダッチェスの祖父ハルは犯罪教唆、ヴィンセントはひき逃げ、警察官ウォークは偽証、肉屋のミルトンは盗視、地上げ屋ダークは暴行。ワーオ。
犯罪とまではいかなくても、車自慢のブランドンはしょっちゅう騒音騒ぎを起こしているし、ダッチェスとロビンを一時受け入れた家族は食事に差をつけ悪口を言い触らしたり、どの人物も欠点あり。

 

作中「悪に程度などないのかもな」とあるように、これは作者は意図してやってるんだと思います。
実際、欠点のない人間なんていませんもんね。
なぜその行為に至ったか、は(ヴィンセントのひき逃げ以外)きちんと描写されているので、理解も出来るしリアリティがあって、人物造形に深みを出しているんですが、読んでてまあまあ辛い気持ちにもなりました。

 

中でも私が一番心惹かれたのはヴィンセント・キング。
過失致死なのに成人刑務所で10年って重すぎじゃない????未成年なのに???
その上30年死んだように生きて刑務所内で自分を傷つけて、自分が父親だと隠して子供を守るために罪を引き受けようとする…。
作中だと私はヴィンセントに一番幸せになって欲しいと思いました。
なのに最後は投身自殺。ううう~~~~!!!
身を投げる前の言葉「自分のしなくちゃいけないことはわかってる。裁きだよ。復讐だよ。まかせといて」が、あまりにも辛くて哀しくてなのに詩的で、一番心に残りました。

 

種々な人物が登場しますが、犯罪を犯した人間はおおむねその報いを受けています。
特に少女ダッチェス。彼女は直情的で抑えがきかず短絡なので、母が殴られて帰ってきた時ダークのせいだと思い込み、ダークの持つクラブを放火しますが、それが発端となり、母は死に、馴染みはじめ穏やかに成長できそうだった祖父ハルとの暮らしを奪われ、何よりも大事にし依存していた最大の宝物である弟ロビンとも別れざるを得なくなります。

 

そんだけのことしちゃったから、といえばそうなんですが、
13歳で母は頼りにならず周囲は敵ばかりと感じる彼女にとって、「あたしは無法者のダッチェス・デイ・ラドリー」と言い放ち、相手に「舐めた真似をさせない」ことが、彼女の唯一生きる術だったことを思うと、なんとも哀しくなります。

 

間違いを犯さない人間なんていない。
そして、やってしまったことを、時を戻してなかったことには出来ない。

 

自分の行いの報いを受けるダッチェスですが、
直情的だった彼女も、弟ロビンがなついた夫婦に養子に迎えてもらうために激情を抑えようと努力し、それに失敗すると断腸の思いでロビンから離れることを決意します。
この、長い時間をかけて少しずつですが、彼女が変わっていこうとする姿はしみじみします。

 

原題は「We Begin at The End」
自分ではどうしようもない現実に打ちのめされ、抗おうとして闇に堕ち、それでもまた立ち上がる、「終わりからまた始める」人々の物語。
闘う少女ダッチェスの物語でした。

 

 

たいへんお久しぶりです。Mです。
最終更新日見てびっくりしました。えっ10年前?!
まさに光陰矢の如し…

 

この10年は、ほとんど“本”を読むことがありませんでした。
改めて思い返すと不思議なんですが、本当に本を手に取ることがなかったです。
じゃあ“読む”という行為自体をしてなかったのかといえば、そうでもなくて。
考えてみるともっぱらweb小説ばかり読んでいたのに気付きました。
PCやスマホで読むスタイルになってたみたいです。

 

時折、現物の本で読みたいなあという気持ちにはなったのですが
自分で探す嗅覚がすっかり失われてしまっているので、
もっぱらS様がお勧めしてくださるのを、ちょこちょこ手に取っていました。

 

そんな中、先日S様におすすめしてもらった本の感想を話していたところ、
「これSM日記向きじゃない?」と言ってくださって
よしじゃあ久しぶりに再開しましょうか♪となりました。

 

前置きが長い?(笑)
まあ10年ぶりですから!

 

というわけで次項より本編再開です!

S「ラピスラズリ」山尾悠子 

ちくま文庫



この本は短編と中編の5つの話でできている。
「銅版」「閑日」「竃の秋」「トビアス」「青金石」の5編。


「閑日」と「竃の秋」は時期の前後はあれど同じ場所でのお話。
中世あたりのヨーロッパの一地方だと思われる。
領主の住む大きな館と、使用人たちの棟。冬だけに使われる塔の棟。
物語は自在に広がり戻り、私の想定ルートからはどんどん外れて行く。
こういう話だろうという私の予想は当たらない。


「トビアス」の舞台は日本の廃市。廃市というと福永武彦を思い出すが、おそらくそれ位の日本の風景。
でも時代の位相はわからない。
なんとなく広島とか岡山あたりの感じで、海があるから広島だろうか。
ビアスは犬の名前。愛らしく忠実で、ゴム人形に魂を与えた犬が出てくる。
この犬が出てきた所から、私は突然数倍の愛しさを覚えて読みはじめた。
車の後を走ってついてくる愛しいトビ(思い出すだけで涙)


最終話「青金石」で時間軸は一番古い時期、もしくは「竃の秋」の少しだけ後の時期に移る。
ここで登場するのはお馴染みのあの聖人なのだ。
5つの世界、5つの時代は時系列があるようでないようで、前後しながら漂っている。
「青金石」の後で冒頭の「銅板」に繋がり(直接的ではないが)、円環になって廻り始める。
4つの季節が場所と時を変えながら、くるくると螺旋状に廻っている。


「銅板」に出てくる旅人と母の過去とか、人形の役割とか、結局どうだったのか。
謎が謎のままになっている所が多いのが良い。
セピア色の雰囲気があるのに、様々な色や香りや古い布や新しい布の質感があふれている。
おいしそうな料理も、あっさりからこってりまで堪能できる。五感に訴える小説だと思う。
それにしても、ラピスラズリに辿り着いた時の清々しい読後感といったら。
季節で言うと、今くらいの春待ち時に読むのが一番ふさわしい気がする。




山尾悠子幻想文学の人だが、最初はSF誌に書いていて長く筆を置いていた方だと聞いている。
私は当時ほとんどSFを読んでいなくて、幻想文学を読んでいた頃には氏は活動されていなかった。
澁澤龍彦に熱を上げていた頃、名前を目にしているはずだけれど作品に触れる機会はなかった。
それは単に私の不勉強によるものだけど、今になって読める事が嬉しい。
過去のものを遡って読めて、新しいものを読める可能性もある事が嬉しい。

SandM 0124

sitarです。ものすごく、ものすごくお久しぶりなのでこっそり更新します。

しばらく読むばかりの日々を過ごしていました。
感想をメモするのももどかしく、次へ次へとただ読む。
体内に活字を貯める為に読んでいるような変な感じ。
文字の餓鬼道のような期間が過ぎて、少しペースダウンした所にやってきたのがこの本。
国書刊行会のが素敵だけれど欲しい本が有り過ぎて、お財布と相談して文庫で購入しました。
著者は「白い果実」の訳者にも名を連ねていたけれど、小説を読むのは初めて。


冬眠者、人形、ゴースト、版画、落ち葉焚き、痘瘡、聖なるもの、怖いもの。

タイトルは深く青い鉱物。私の好きなものがたっぷり。
ネタバレしない程度にレビューしたつもりだけど、これでもかなり書き過ぎかもしれません。
上記のキーワードだけでわくわくできる方は、迷わずお読みになるのをおすすめ致します。

M「デンデラ」佐藤友哉

新潮文庫



実は以前「エナメルを塗った魂の比重」を読んでいまして、その余りのアイタタタタぶりが印象的でしたんで、今回老婆ばかりのお話と聞いてちょっと意外でしたが、これはこれで楽しく読めました。
70オーバーの老婆達が皆とんでもなくタフなところとか、“70年頭を使わず生きて”きて、おそらく教養もないだろう斉藤カユが普通に会話で「韜晦はやめろ」「愚弄するのか」という言葉を使うところとか、ありえないと言えばそうだけど、「ですます」調の地文といい、狙ってやってるんだろうなあと。
その辺がいかにも物語チックで、リアリティ排除されてるんで逆にスルスル読めましたねえ。ほんと数時間で読めちゃった。


人喰い羆の描写はえぐいと言えばそうですが、三毛別羆事件は読んでたので、へこたれることなくクリア。
貧しい村の風習「お山止め」「指切り」「雨止め」「垂れ口」「垂れ股」という数々の暴力も、悲惨なんですが、前述の「つくりごと」感で大丈夫でした。


話は二転三転。
始めは村を襲撃する話かと思ったら羆との戦いで、かと思ったら疫病の話が出てきて、したら仲間割れで堂々たる100歳老婆が中盤であっけなく死んで、残りの穏健派筆頭も羆に殺されて、50人いたデンデラの人数は6人に。うち三人はラストまでに死ぬし、残り三人はどうかなあ。デンデラ再建すると言っていましたが難しいかも。(このへんあまり関心持てず…笑)


でも主人公の斉藤カユは最後まで走る。そこがちょっとカッコ良かったかな。
考えさせられるとか衝撃とかはないけど、エンタとして楽しく読めました。


しかし解説にはぐったり…。すごいなあ、ここまで本文の面白さを削ぐ解説久々に見ましたよ。
まさに「生きた小説を標本にする」解説ですな。

M「虐殺器官」伊藤計劃

ハヤカワ文庫



タイトルに少々ビビリつつ読みましたが、いや面白かったです。


まず「うわあ」と思ったのが、やはりその引用の多様さ。
S様も書いておられる通り、映画・聖書・言語学・進化論・軍事・歴史、色んなとっから自由自在。
モンティ・パイソンは結構頻度多くて、お好きなのかなあと思ったり。「黒い騎士がアーサー王と戦う映画」というのは「ホーリー・グレイル」ですね。SWD=シリー・ウォーク・デバイスもパイソンネタだろうなあ。
ジョン・ポールという名前も面白い。両方とも通常名前に使われますよね(違うのかな?)。某ビートルズの二人とも読めます。
あと、「フジワラという名前のトウフ・ショップが使っていた車」はちょっと笑った。イニシャルDですやん!


ま、そういう引用の楽しさもあって、サクサク読み進めてたんですが。


読み始めてすぐ違和感があったのが、主人公のナイーブさです。暗殺を主な任務とする特殊部隊員にしては驚くほどの青臭さ。
読了後、解説で、このナイーブさは作者の狙ったものというのを知ったのだけど、(「ぼく」という一人称も未成熟さの演出?)ラストまで、いまひとつ腑に落ちないまま読んでいました。


そのナイーブさ引きずったまま、第三部でルツィアとの進化や適応や良心の対話に突入したんで、ちょっと読むのが辛くなったり。第四部の「マスキングされたなら殺意はあるのか」や「意識はモジュールの問題」ともども、“このへん作者のテーマなのかなあ”と思いつつも、どうも理屈先行で、少々しんどかったです。


そしたら第五部で、ジョン・ポールの目的が明かされて、さすがにびっくり。
散々何度も「完璧に正気」と描写されてるにも関わらず、やはり狂気としか思えないこの行動原理。いや「愛する人を守りたい」という動機自体はまっとう、と言える、の、か?だから彼は「正気のように見える」のか?
しかし動機はまっとうでも、その為の手段がもう無茶苦茶なんですけど〜(汗)。
でもまあ、ルツィアが死んで、ジョン・ポールがあっさり出頭しようというのは納得できました。守ろうとした人が望んだことですもんね。


問題はエピローグ。ナイーブな「ぼく」が、虐殺の言語を使ってアメリカに内戦を引き起こさせる。「命令とは関係なく、ぼくの意思でこの虐殺に終止符を打つつもり」だった彼が。


えーなんで??なんでそうなるの??


彼が罰を欲していたのはわかるんです。本当に罰してほしかったのは母親で、でももういないから、恋に落ちた相手でありジョン・ポールの愛人であるルツィアに母親の役割を投影し、彼女からの罰を欲していた。
でもルツィアも、もういない。しかも、愛されていると思っていた母親の中に、自分の存在は殆ど意味をなさなかった。あの視線は愛情からではなかった。


彼にとって、自分の罪を罰する相手は、いくばくなりと自分に愛情を抱いている相手からでないと意味がなかったのも。
だから母親のライフログを読んだ時、彼は「真の空虚に圧倒」され、自分で自分を罰しようとしたのも。


けれど、一時心を通わせたルツィアの望みは、アメリカに虐殺を引き起こすことではなかったはず。
虐殺言語によって引き起こされた他国の内戦のおかげで、アメリカの平和が保たれている事実を知らしめ、他人の多くの死によって享受している自由への責任をとる道を探ってほしいと思っていたはず。だからジョン・ポールも出頭しようとしたんだし。
けど主人公が取ったのは全然方向違いのやり方だった。


ここに至って、彼がナイーブに設定されているのは、ここへ持っていくためやったんかな?とチラリ思ったりしました。
母親への復讐が見え隠れする青臭い自罰。しかも本人は買い貯めた食糧のある自宅で安穏とピザを齧りながら、(自分が引き起こした結果である)外で聞こえる銃撃音を「うるさいな」と感じ、しかし「ここ以外の場所は静かだろうな」と考えることで自己満足。エエー。
それって「罪を背負うことに」なるんかなああああ。
全然「背負って」なんかないですよね。単なるポーズにしかすぎませんよね。
本音は荒れた世界と隔絶して、自らは安全な繭の中でゆっくりと死を待ちたいだけですよね。
胎児を連想させるその姿はなんとも子供っぽい、未成熟なものに見えてしまいます。
そんな“ナイーブ”な彼だから、アメリカに虐殺をとか思いついたんかな、とか。うーんうーん。


最後主人公が虐殺の言語を使って内戦を引き起こすというラストは、十分衝撃的でドラマティックだけど、やっぱり動機がよくわからん、つうか弱いといえば弱いので、そこを真面目に考え出すと、ちょっともにょってしまいました。
なので、色々こねくりまわして考えてはみましたが、今ひとつよくわからないなあ。
まあドラマティックやからええか、みたいな(いいのか)。
SF的な様々な道具立ては素敵だったし軍事トリビアも面白かったしね!