M「皮膚−自我」ディディエ・アンジュー

言叢社

皮膚の損傷は身体や「自我」の境界線を維持し、
無傷のまとまった存在であるとの感情を再建するための劇的な試みである。


皮膚は外界に接する一番外側の器官です。接触感や音や温度、嗅い、味覚、苦痛などを感じる外被であり、「わたし」という自我を包み込むものでもあります。自我は皮膚に包まれ、外界=他者と、接しながら隔てられることで、安心して外界=他者と関わることができます。しかし時として、自我を包み外界を遮断してくれるそれが、まるで存在しないように感じたり、それを傷つけたり孔をあけたりしたくなります。
この本では、「皮膚−自我」の構造は幼少時に形成されるとし、それがどのように形作られていくのか、またその生成がうまくいかなかった時、混乱した「自我」がどのようにその攻撃性を自らを包むはずの皮膚に向けていくのか、そしてその結果生じる罪悪感や恥辱がどのような影響を及ぼしていくのか、それらの過程を丁寧に分析しており、非常に面白いです。また、当時としてはまだ新しかった(と思います)「境界例」の分析もなされていて、非常に面白く興味深く考えながら読んだのを覚えています。
分厚いし精神分析学論書でもあるせいか、すらすら読むというわけにはいかず、読了に一ヶ月ほどかかったのですが、その価値はありました。私にとって必需品な本です。

(もう少し詳しく、更に分かりにくい(爆)内容の説明を読みたい方は↓)


私がこの本を読みたいと思ったのは、自分が幼少時よりアトピー性皮膚炎とおつきあいしているのが理由の一つでした。アトピー性皮膚炎は、夜も眠れない絶え間ない痒みを伴います。傷ついた皮膚からは常に生汁(きしる)が染み出して、繰り返しできる瘡蓋は動くたびにポロポロと落ち、皮膚は硬くなり黒ずんでひび割れていきます。外出もためらわれるような気持ち悪く醜い外見になるのがわかっているのに、どうしても掻いてしまう、そしてそれによって非常に精神的に疲れ落ち込んでいく、これがどういうことなのか、きちんと考えたかったのです。

精神的に疲れるのは、掻いてはいけないのにかいてしまい、それがやがて麻薬のように快感へと変わっていくからというのも理由の一つなのですが、その過程をアンジューはこのように解説しています。

ひっかくことは攻撃性が身体への方向転換を行うアルカイックな形式の一つである。(「自我」への方向転換を行う代わりである。「自我」への方向転換へはより進化した「超自我」の形成が前提となる)結果的に生じる恥の念はひっかきはじめるともう止まらないだろうという懸念隠れた制御できない力に導かれているという感情、さらに皮膚の表面に傷をつけようとしているという自覚に由来する。この恥の念は、ひっかきの中に見出されるエロス的興奮によって払拭されがちであり、これは次第次第に病的な循環反応となってゆく。
(下線はM)

これは自分が薄々感じていたことで、それをこのように言語にしてもらって、改めて確認をすることができました。残念ながら掻き毟りは収まっていませんが、それはアンジューに従えば、私の「超自我」が形成されていないからなのでしょう。


そもそも「皮膚−自我」の構造は幼少時に形成されるとアンジューは説くのですが、その形成が十分でなかった場合、赤ん坊は成人したのち『物質的であれ精神的であれ、意味のあるやりとりを伴わないものを糧として受け入れるたびに気をめいらせ、そうした受け入れによって自分の内部の空虚さをますます切実に感じるように』なるとここには書かれています。
『内部の空虚さ』を感じたとき、それはますますのかきむしりを起こさせます。
掻き毟り皮膚を傷つけることで「自格喪失の危険」が起こります。それはひっかくことが『孔をあけられ得る外被のイメージと、孔から生の実質が流れ出していく苦悩と結びついている』からで、それは「空虚になる苦悩」を更にかきたてます。
かゆみとは『自体愛と自己懲罰の堂々巡り的な戯れ』なのです。
この辺も非常に納得のいくものでした。


掻き毟り皮膚を傷つけることで精神的に疲労するのに何故それでも掻くのか、それは『皮膚の炎症を精神的な苛立ちと混同する』のであって、更にそれは『いまだに訣別できずにいる精神と身体の未分化状態』ゆえであるとアンジューは書いています。その未分化状態は「境界状態」へと繋がっていきます。

境界状態とはどのようなものなのか、これについてもアンジューは興味深い分析を行っています。

境界状態−精神分析の臨床における新しい疾病分類学的カテゴリーの一つ−これは、分離がうまくいかない、より正確には過度の密着と突然で予見できない分離という二律背反的状態が早くから繰り返し交互に現われ、身体的な自我/心的な自我をゆがめているような患者にかかわるもの。

境界状態の人物についてはこのように描写しています。

精神的外被の脆弱さないし欠陥に由来する傷つきやすい自己愛自分が悪しき存在であるというとりとめのない感覚人生を生きていないという感情、自分の体と心の動きを外部から眺めているような、また自分の存在であって存在でないものを傍観しているような感じ方。
心的「自我」と肉体的な「自我」、現実の「自我」と理想の「自我」、あるいは「自己」に依存しているものと他人に依存しているものの境界の欠如。抑うつ状態への転落。性感帯の不分明化。快適な経験と不快な経験との混同。欲動の高まりを欲望としてではなく暴力として感じさせる不明瞭な欲動。
彼らは社会生活においては他人にしがみついており、精神生活においては感覚や感情にしがみついている。彼らは視覚によるにせよ、性交によるにせよ、侵入というものを恐れる

これらは今となっては目新しい主張ではないかもしれませんが、私にとって非常にわかりやすく飲み込みやすい分析でした。

そして、その境界状態と「皮膚−自我」については、こうあります。

境界状態において有害な変質をこうむるのは「皮膚−自我」の全体的構造である。通常は外部世界と内部の現実とのあいだの界面に位置している知覚−意識系の一部が、その位置から引きはがされ、外的な傍観者の位置に押しやられる。
「皮膚−自我」のねじれた性質ゆえに、個人の存在の核を構成している情動は、中心を離れて周辺へとさまよっていき、知覚−意識系の一部の外部への移動のため空白になっている場所のいくつかを占める。


皮膚をひっかくことは「破壊的方向転換」であり、それは『身体及び思考の内容への幻想上(時として実際行動に転化しうる)の攻撃、すなわち内容への攻撃が外被へと方向転換』しているのでしょう。

これを、『想像の中で皮膚をくるりと裏返して、内容を外被とし、内部空間を外部を構造化していくための手掛かりとし、感覚の対象だった内部を認識可能な現実とすることからなる』「創造的方向転換」と為すことが出来れば、あるいは救いがあるのかもしれません。