S「木」幸田文


新潮文庫



樹木好きの筆者が遺した、日本各地の樹々との出逢いと思いがつまった随筆。
幸田文の本で一番好きなのは「きもの」で、この本が二番目。毎日の暮らしの中に着物や布地への愛着が自然に染み込んでいるのと同じように、木へ愛情もそれに近い。
木の肌を描写するのに、染めや織りの着物の柄をあてはめている。杉はたて縞の着物を着ている、なんて。そんな感覚がとても好きだなと思う。私も樹木図鑑を買ってはみたけれど、着物の知識も柄の知識も乏しく、木に至っては好きなだけ。公園に行って図鑑の写真と見比べても科も目もわからない。


この本に出て来るのは植物学の知識ではなくて、様々な着物をまとった「木」という種族のお話なのだ。擬人化している訳ではないが、物というより人に対しているような気構えを感じる。


北海道の「えぞ松の更新」は、せつなくて神秘的だ。厳しい環境である北海道の自然林では、種子は倒木の上で育つのだ。元々の倒木が朽ちてなくなってしまっても、その後に成長した木は一直線の並び方で倒木更新である事がわかるのだそうだ。そんな事を言われたら、もう跡形もない木の生きて立っていた時のことまで想像して涙ぐんでしまいそうだ。
それをぜひ見たいと彼女は北へ向かう。何せ木のことになると、どこまでも行く人なのだ。そして実際に見て触れて、心を震わせる。


屋久島の縄文杉の話。70代での体力ギリギリの旅で、負ぶってもらってまで近くで見たいと願った常識を超えた樹齢の杉。その異様な姿にショックを受けて、1年たった後でもあの杉をどう考えれば良いものか、と思いあぐねる。
観光地に行って期待通りの大自然に出逢って感動して満足、とはいかない人だ。自分自身で腑に落ちるまでは納得できない。
この時の話は娘である青木玉の「こぼれ種」にも書かれている(この本も好き。母上よりも穏やかでたおやかで、でもやはり木に関しては同じ頑固さを感じる)。

何人もの人を煩わせ、最後は背に負われて自分の体重さえ人に預ける程の思いで見た木は、杉の持つ概念をすべて打ち砕く力を持って周囲を威圧していた。披露し切った体で、ただその杉に出会いたいという思いを頼りに辿り着いた目に、縄文杉は樹齢、樹容、樹皮のすべてが異様に感じられ、恐れて見ても居られず、お昼のお弁当を前に、うたた寝をしてしまったというのだ。あの気性のしっかりした母が、弱さを曝してうずくまったであろう姿は、聞かされたこちらも目を閉じたい切なさであった。

しかし彼女はうたた寝の後には、縄文杉のその姿を好もしく思えるようになる。おどろおどろしく見えた樹皮の模様も、手織の織物のように粋に見えてくるのであった。この章は「去年は、縄文杉に出会えて、この上ない仕合わせな年だった」と書き始めている。


ぬくぬくすくすく育った優等生の木よりも、少し不遇で耐えて踏ん張っている木を応援したくなる人なのだ。彼女の本に出てくる人達とどこか似ているような樹々。気力体力を振り絞っての木との出逢い。
良いなぁと惚れ惚れしつつ、私もいつか木と対話ができそうな気がしてくるのだ。