M  ロシアン・ルーレット#1

じっとりと湿った掌を、こっそり汚れたジーンズの太腿で拭う。ステファンは「どうしてこんなことになったんだろう」と心のうちでひとりごちた。何度目かの疑問。
右手で拳銃を弄びながら、何気なさを装って目の前の男を盗み見する。金髪の男は上機嫌で、汚れたグラスからジャックダニエルを飲み干したところだ。分厚い下唇から褐色の液体がぬめりと垂れる。だらしなく伸びた金髪。薄汚れたタンクトップ。よれよれのバミューダパンツ。盛り上がった二頭筋にはマリリンモンローの刺青がある。いまどき。しかしその周囲に縦横無尽に走る傷痕のためか、陳腐なセックス・シンボルは禍々しい女神にも見える。気負ける。
そもそも、こんな危ない話じゃなかった筈だ。ふらりと入った酒場で見も知らぬ同士が意気投合。閉店しても呑み足らず、河岸を変えて更に盛り上がる。よくある話だ。


それがどうして俺は、ロシアンルーレットなんかやってるんだ?


あのとき。酒場から人影が消え、バーテンダーが欠伸をしながらこれみよがしにテーブルを拭きだし、そしたら金髪の男がソロモンが、いい場所を知っているというので、二人で終夜営業の酒屋に繰り出して、ウォッカをラッパ呑みしながら254号線をブッ飛ばして…。俺は早くも朦朧となってたから、ソロモンが何処へ向かっているかなんて聞きもしなかった。人気のないビル街の地下二階に降りたときだって、「こりゃ心おきなく騒げるぜ」くらいにしか思っていなかった。二人で更に呑んで呑んで、そしたらソロモンが、“ちょっとしたゲーム”をしようぜと言って、無造作に棚に置いてあった拳銃を取り出したんだ。


ソロモンはゆっくりと酒を注ぎながら、目の前の黒髪の男を眺めた。あの髪は少し伸びすぎだな。邪魔っけそうに払ってばかりじゃないか。だが体格は悪くない。細身ではあるが引き締まっているのがTシャツの上から感じられる。鍛えてやればイイ線だ。それにしてもあのTシャツはなんだ。いい年してANIMEか。ハッ!ソロモンには、ステファンが、迷える子羊に見えていた。自分がどこに行きたいかも分かっちゃいねえ。誰かが導いてやらないとな。ソロモンは、ロシアンルーレットの話を持ち出したときのステファンの反応を思い出すと、頬が緩むのを抑え切れなかった。ボーイときたら、ションベンちびりそうな顔してやがった。いきがっちゃいるが、本当にタフな男の世界は覗いたこともねえ。ただのネンネだ。ベイビーだ。可愛いベイビイ。一巡目はお手本に俺が引き金を弾いてやった。それを見て、自分も出来ることを証明したかったんだろう。酒の勢いもあってか二巡目は案外簡単に弾いた。ブラヴォ。ベイビー。ブラヴォ。しかし四巡目の今度はそうもいかないようだな。しきりに掌の汗をケツで拭ってやがる。隠しているつもりでもお見通しだぜ。可愛い奴。


「どうしたボーイ。えらく時間がかかっているようだが?」


ステファンは少し苛立った。「ボーイ」と呼ばれるのは何よりも嫌いだ。それに、舐め回すようなソロモンの視線。俺を小馬鹿にしているんだろうな。ボーイか。
怒りに任せた勢いに乗せて、引き金を弾く。カチンと音がして、空の薬室を叩いたのがわかる。思わず全身が弛緩する。目尻に涙がにじむ。死ななかった。助かった。だがすぐに、この行為全体の馬鹿馬鹿しさに吐き気がした。俺は一体どうなっちまうんだ?
ソロモンにわからないように深呼吸して、ゆっくりと拳銃を手渡す。なんでこいつはこんなに落ち着いてるんだ?畜生。


かすかに震える手から拳銃を受け取りながら、ソロモンは思わず微笑んだ。心底ビビっちまってるな。ソロモンにはボーイの心理が手に取るように分かった。ここまでついてこれたのは上出来だ。だが次に俺が空の撃鉄を引いたらどうかな?多分沈黙、そして恐る恐る、そして泣きながら命乞いをするんだろう。今までみんなそうだった。この地下室に誘い込んだボーイはみんな。
だがこいつは生かしてやろう。何しろ見込みがある。可愛いボーイ。俺の牧場に連れていってやってもいい。


ソロモンは、真っ直ぐステファンの瞳を見据えながら、右耳のすぐ上に銃口を当て、あっさりと引き金を弾いた。カチン。空虚な音。
あんぐりとステファンの口が開く。見栄も外聞もなく驚愕したその顔を見て、思わず笑いが爆発する。馬鹿だ、馬鹿だなボーイ。なんで俺がお前をここに連れ込んだのかわからないのか?なぜここにあった拳銃を使ったのかわからないのか?ここにあった拳銃。俺の拳銃。
苦しい息の下ソロモンは囁いた。「俺はやったぜ。さあ、男っぷりを見せてくれ。見せてくれよ、ボーイ」


ステファンは静かに拳銃を拾い上げると、じっと銃身を見つめた。
そして、無表情のまま、ソロモンの眉間を撃ち抜いた。