M「男と男の恋愛ノート」簗瀬竜太+伊藤悟

太郎次郎社



まあ、「あんしん電話」は最後の手段として(えっ)
孤独死の本を読んで、
「家族がいなかったり年上だったり、いても繋がりが希薄なら、他人と繋がっていくしかない。それにはどうすればいいのか?」
という繋がりで読み始めたこの本。


これは、ゲイである著者二人が、家族へのカミングアウトを経て、
母親と暮らす伊藤家に、簗瀬氏が同居してからの日々を書いてるんですが


いや〜、もう、壮絶!


赤の他人が一緒に暮らしていくのは、本当に並大抵では出来ない!
このケースは、いきなり相手の母親と同居なんだからそのハードルたるや。
しかも掲載されている家の見取り図見て絶句。
トイレ風呂洗濯全て母親のベッドがある部屋に隣接、その部屋を通らねば二階にもトイレにも行けない。
これは厳しすぎるでしょう。というか無理でしょう。
そりゃ何をするにもいちいち気を使うし、それくらいならと洗濯物を実家に持っていくのもわかる。
それを「図々しくなって自由に使えばいい」というのは無理があるかと思います伊藤さん。


転がり込んできた側が当時無職という負い目もあって母親の家事を手伝いだす、すると母親が段々「手伝ってくれて当たり前」と思うのは当然で、そうなると初めは善意で始めたことでも、しなければならない義務・プレッシャーになっていくわけで、でもパートナーは「仲良くやってるじゃん」くらいの意識しかなくて


そりゃー大喧嘩になるわ。修羅場になるわ。
でも大喧嘩しながら乗り越えていくのがすごい。そこを赤裸々に書いたこともすごい。


パートナーシップの話からは少しずれますが(でも繋がってますが)、
家族、ことに母親に対しては、どうしても無意識で甘えちゃうんだろうなあという事も思いました。私含め。「してくれて当たり前」と。
でも実は全然当たり前じゃないんですよね。
簗瀬さんと母親の会話にも触れられてるけど「生活をするってことは人間の基本」なのだ。
橋本治いわくの「自分の食い扶持は自分で稼ぐし、自分の汚れ物は自分で洗う」のが当然なのだ。


それを自覚して、自立した人間となったとき、よりよいパートナーシップを相手と築いていく「自分の足場」が出来るんじゃないかと思う。


そう、あくまで足場。あくまで「スタートラインに立てる」というだけです。
誰かと一緒に住んで生活を作り上げていくには、他にもいろんな努力が必要ではないかと。
その中の一つが、陳腐ですが話し合い。それもマメに。
なんつうか、生活の一つ一つの作法が違うから、いちいちしょーもない細かいとこでひっかかったりするのですね。
それをお互い譲ったり許したり受け入れたり、そういう作業を細かくしていくうちに、「二人の作法」が出来上がっていくんだと思いますです。
時間も根気もかかりますけど。相手と一緒にいたいという気持ちがないと続かないですけど。


本書の終わりでは、またまた大喧嘩して同居を半分解消している描写があり、ちょっと心配だったのですが、これより10年後に出た某文庫の後書きに伊藤さんが登場しており、変わらず簗瀬さんと一緒にいるご様子でほっとしました。