M「おれの中の殺し屋」ジム・トンプスン

SandM2011-02-24

扶桑社ミステリー


うー・わ!
なんだろう、なんだこれ、なんかわからないけど、
読み始めたら止まらなくなって、もう一気読み。


決して爽快な話ではないです。なにしろ一人の男が人殺しを続けていくのですから。
かといって陰鬱、というわけでもないのです。湿り気がないのです。
更に、例えば「アメリカン・サイコ」だと、パラノイアックで神経症的な部分があったのですが、そんなこともなくて。
読んでいると、この男にとっては誰かを殺すということが、ごく当たり前のことのように思えてきてしまいます。
当たり前といっても、金銭とか、恨みとか、そういうハッキリとした理由があるというわけでもないのです。うーん説明しにくいな。
“やむにやまれぬ殺人衝動がある”これも、先ほどよりは近づいた気がするけれど、しっくりこない。
殺すのを運命づけられている、という感じでしょうか、しいて言うと。
途中彼が叫ぶ「どいつもこいつも、どうしておれのところに殺されにくるんだ?」という叫び。
ラスト近く彼が言う「おれは生きている限り自由にはなれないので…」という言葉。
彼は確かに、自分の中の殺人衝動を抑えようと努力していました。忘れようとしていました。言葉や態度で何気なく相手をいたぶることで満足しようとしていました、必死に。
けれど結局逃れられなかった。そんな気がするのです。


舞台はテキサス州セントラルシティ。
市境の看板には“ここの握手は少々きついぞ”と書かれており、“男は男で、男は紳士で、そうでなければ人間じゃない”土地柄。
彼はルー・フォード。そこで保安官助手をしている。しょっちゅう人を煙に巻くような事を言う退屈なお人好し。正直ルー。幼馴染で教師のエイミーとは長く付き合い、結婚するものと誰もに思われている。表の顔。
だけど本当は、女を傷つける性癖があり、町外れの売春婦と関係を持ち、殺人を計画する。
同時に、町の問題児のギリシャ人の息子を気にかけ、損得抜きでなにくれとなく面倒を見る。
そのアンバランスさ。


冒頭に書いたように、決して爽快な話ではないのですけど、
読後、私がまず感じたのは、憑き物が落ちたような、すっきりとした気持ちでした。
何か目の前の霧がはれやかに消え去ったような、晴れ晴れとした心持ち。
「なんでかな?」と、度々考えてみたのですけど、いまだにはっきりとした答えが出ません。
ただ、以前一度読みかけた時は、どうしても物語の中に入っていけなくて途中で本を置いたので、そういうタイミングだったとしかいいようがないのかも、という気もします。


タイミングとは関係なく言えるのは、ジム・トンプスンの文体が好きということ。
本文中に、主人公ルーの独白として
「ずいぶん本は読んだけれど、ここが見せ場というところに来ると作者は必ず頭に血がのぼってしまうようだ。句読点がおろそかになってきて、やみくもに言葉を羅列して、瞬く星が深い夢のない海に沈んでいくなどという戯言を並べ出す。」
という文章があるのだけれど、なんかとっても頷いてしまいました。


とにかくガツンときましたねえーこれ。
そいでもって、なぜかとても人生に前向きになりました。そんな話じゃ全然ないんですけどね!